2007年05月27日
良さんの話 10.敗戦前
良さん(父)が衛生兵として帯広にいたころ、生々しい戦いの話は聞いたことが無い。
駐屯地があるところを攻撃するようなまねを、米軍はしなかったのだろう。
第七師団があった旭川で爆撃があったらしい事は聞いているが、
東京大空襲のような事態ではなかったようだ。
一方母の実家である網走近くの浜小清水あたりでは、
グラマンの急降下射撃が行われていたという。
原生花園に沿って走る線路めがけての練習だったらしいが、鉄道員に死人が出たと聞く。
母の実家は濤沸湖の湖畔にあったが、射撃による水柱が2メートルも立て続けに立って、
恐ろしかったそうだ。
昭和20年8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を廃棄し日本に戦線を布告した。
日独伊三国同盟をむすんでいた、ドイツ、イタリアの敗戦が濃厚となってからの参戦である。
いかにもソ連らしい。
そんな中、父の部隊は釧路港からサハリンへ異動するよう命令が下った。
駐屯地があるところを攻撃するようなまねを、米軍はしなかったのだろう。
第七師団があった旭川で爆撃があったらしい事は聞いているが、
東京大空襲のような事態ではなかったようだ。
一方母の実家である網走近くの浜小清水あたりでは、
グラマンの急降下射撃が行われていたという。
原生花園に沿って走る線路めがけての練習だったらしいが、鉄道員に死人が出たと聞く。
母の実家は濤沸湖の湖畔にあったが、射撃による水柱が2メートルも立て続けに立って、
恐ろしかったそうだ。
昭和20年8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を廃棄し日本に戦線を布告した。
日独伊三国同盟をむすんでいた、ドイツ、イタリアの敗戦が濃厚となってからの参戦である。
いかにもソ連らしい。
そんな中、父の部隊は釧路港からサハリンへ異動するよう命令が下った。
Posted by あきひろ佐藤 at 10:31│Comments(2)
│父の話
この記事へのコメント
あ 様
その頃、私の父は福岡県の基地にあって待機してました。
北九州一帯は兵器工場や炭鉱、製鉄所をかかえる工業地帯でしたから街は連日の空襲。
父たちは何を待機していたかというと、対馬あたりを越えて敵艦隊が現れたらいつでもボートで突っ込んでゆくためです。
このような状況で、若い兵士たちを敵艦隊の出現ルートにそろえておく。来たら突っ込め、と。
釧路から最前線のサハリンへの異動もきっと同じなのでしょうね。
冬野
その頃、私の父は福岡県の基地にあって待機してました。
北九州一帯は兵器工場や炭鉱、製鉄所をかかえる工業地帯でしたから街は連日の空襲。
父たちは何を待機していたかというと、対馬あたりを越えて敵艦隊が現れたらいつでもボートで突っ込んでゆくためです。
このような状況で、若い兵士たちを敵艦隊の出現ルートにそろえておく。来たら突っ込め、と。
釧路から最前線のサハリンへの異動もきっと同じなのでしょうね。
冬野
Posted by 冬野由記 at 2007年05月27日 13:31
冬野 様
コメント忝くおもいます。
今日良さんに会って話しを聞いたのですが、
衛生兵の試験なるものを受けるため、釧路へ行っている間に、
帯広駐屯地がグラマンの攻撃にあったそうです。
よせば良いのに敵数機へ向け、三八式の銃を発砲した兵士が、
敵機を本気にさせ、機銃掃射にあって命を落としたとか、、、、、
なお、グラマンがひとしきり攻撃を行った後に、
日本軍の飛行機が来る有様で、制空権どころか、交戦権すらない
状況だったみたいです。
詳しいことは分かりませんが、人員は不足していたのは確かなようです。
コメント忝くおもいます。
今日良さんに会って話しを聞いたのですが、
衛生兵の試験なるものを受けるため、釧路へ行っている間に、
帯広駐屯地がグラマンの攻撃にあったそうです。
よせば良いのに敵数機へ向け、三八式の銃を発砲した兵士が、
敵機を本気にさせ、機銃掃射にあって命を落としたとか、、、、、
なお、グラマンがひとしきり攻撃を行った後に、
日本軍の飛行機が来る有様で、制空権どころか、交戦権すらない
状況だったみたいです。
詳しいことは分かりませんが、人員は不足していたのは確かなようです。
Posted by あ at 2007年05月27日 20:49
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