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2011年03月16日

佐藤家の家訓

佐藤家の教えは、食い物とお化けには油断するな!である。
子供のころからよく良さん(父)から聞かされていた。

食い物は、食べられる時に食べておけ、ということで、未だよく噛まないで早食いなのはそのせいかも知れないが、お化けの意味することは分からずにいた。

化け物などいる訳がないので、随分お茶目な事をと思っていたが、今回の地震、津波、予期せぬこをお化けと言っていたのかもしれない。

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Posted by あきひろ佐藤 at 11:23Comments(0)父の話

2011年02月22日

さくら子先生

さくら子先生とは、良さん(父)の主治医である。

正月に帰ったとき、父が「お母さん、さくら子先生から年賀状か来たぞ!」って
誇らしげに言っていた。

誰よっ?て聞いてみたところ、透析のこと、食生活など全てお任せしているらしい。
名前もかわいらしいのだか、30少し前、めんこい先生だそうである。

老いらくの何とかでは絶対ありえないそうだが、週三回の軽い透析を楽しみに、
そして、別施設での歩行運動と、新たな日課をこなしている。

良さんは、医療関係者の言うことを、本当に良く聴く従順な男だから、
病院ではモテ男?扱いされることが多い。

だが恐れ多くも、さくら子先生に90まであと5年、何とか生かして欲しいと頼んだそうだ。

そんなこと言われても、先生も困るよなあ。

だが良さんは大真面目、せっかく増えた年金を少しでも長く受け取り、
不肖息子の行く末を見届け、、、
それより一回でも多く、さくら子先生に会いに行きたいのかも知れない。


  

Posted by あきひろ佐藤 at 11:39Comments(2)父の話

2011年01月26日

棚ぼた良さん

PCがの液晶を修理していた年初、6日から8日まで私は札幌の実家へ帰っていた。
マンション暮らしは快適らしく、歳なりに体調の不具合をかかえつつも、
日々の営みを送っているのは喜ばしいことだ。

富に良さん(父は)、何故か元気である。
昨年3月、かかとの骨にひびが入り、入院したあたりから、
歩行が上手くいかず、あわせて腎機能の低下からくる、むくみなどで、
生きていても何も良い事は無い?などと悲観的でったのだが、
週三回の軽い透析と、歩行リハビリに日課として、実にご機嫌なのである。
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Posted by あきひろ佐藤 at 12:31Comments(2)父の話

2009年08月15日

良さん(父の)話 23 敗戦

今日は8月15日、先の大戦で日本が負けた敗戦の日である。

先の大戦と言うと、湾岸戦争?とかアフガン戦争?とか言われる位だから、
今の若い人にとっては、遠い日の出来事に過ぎないのだろう。

では私が知っているのか?と言われれば、戦後の高度経済成長期の最中に育った訳で、
従軍した父から聞いた話くらいなものである。

昨年の8月15日、敗戦記念の日だと父が言っていたのをログに残しているが、
何年たとうとも、良さんにとってその日はみじめな敗戦の日なのだそうだ。

報道では、終戦の日という言い方をしている局が多い。
記念日でもなく負けた日でもない、戦いが終わった日ということなのだろう。
実際暦の上で8月15日は、祝日ではなくお盆に紛れた只の一日という扱いになっている。
だがこの日を境に、戦前の政治とは明らかに異なる民主主義の日本が始まった訳だ。

良さんに言わせれば、戦後、日本は他国へ攻め込んだりの戦争というものを
一切していないのは、新たな憲法のおかげだそうだ。
本当に世界に誇れる憲法だと思うが、良さんが個別的自衛権などどう考えているのか
聞いてみたいところでもある。
きっと軍備を持たないことが、紛争の抑止の上で最も効果があると考えているのではと思う。

死を一度は覚悟した者から見れば、自衛隊なんぞ只の戦争ごっこだ!
と吐き捨てるように言う良さん、防衛省関係者には悪いが、
この言葉を否定する事は私には出来ない。

  

Posted by あきひろ佐藤 at 13:03Comments(4)父の話

2009年02月06日

良さんの話 22.原因は

大正末期、江差に生まれた良さん(父)は数奇な運命にて、
裕福な幼少をおくり、また貧しい十台前半を向かえ、軍属になり仕送り生活。
二十歳で召集、衛生兵で敗戦、戦後を迎えた。

労働基準監督署の仕事を得たものの、どういう訳か江差に居ることが出来なくなり、
夕張を経て旭川に来ることになった。
昭和25年の事である。

理由を聞こうにも、良さんは一昨年肺炎を起こして入院したり、バタバタしたものだから、
中々聞くことが出来なかった。

また江差に居られなくなった理由が理由だったから、母のいる前では、
八十超えて金結も過ぎた仲でも、そう簡単に話すのは躊躇われたのだろう。

原因は女。

江差病院の看護婦さんと、仕事の関係で知り合い、恋仲になったそうである。
だがその女性の母親が何故か反対し、グズグズしてしまったそうである。
そのうち札幌労基署への異動話がもちあがる。
良さんはその女性と結婚すべく労基署を辞めて、地元の建設関係の仕事に就こうとしたらしい。
しかし時既に遅し、その女性の恋の炎は消えてしまったらしい。

バツの悪いというか、どうにも狭い街にいられなくなった良さんは、
伯父を頼って夕張で炭鉱のアルバイト、旭川の小さな製紙会社に職を得た。
旭川では、小鳥を飼っていたそうである。
  

Posted by あきひろ佐藤 at 01:24Comments(4)父の話

2008年08月15日

敗戦記念日

今日は8月15日、いわゆる終戦記念日である。

大分前のことだが、「今日は終戦記念日だね」と父(良さん)に言ったら、
「あれは敗戦だ!!」と言われたことがある。

そんなに美しいものではなく、只惨めで惨めで、「敗戦」以外の何者でも無かったそうだ。
それを「終戦」などと、死を覚悟したこともない輩から、軽々しく言われたく無いらしい。

多分今日のニュースでは、「終戦記念日」という言葉が当たり前のように使われるだろう。
でも、私はあえて「敗戦記念日」として、良さんの思いを刻んでいきたい。

  

Posted by あきひろ佐藤 at 01:04Comments(2)父の話

2007年08月16日

良さんの話 14.夜逃げまがい

良さん(父)は、62年前の今頃、日本の敗戦を知り、喜んだのか悔やんだのか
分からないけれど、札幌での軍の解散で、故郷の江差え帰った。
その後今の労働基準監督署に勤めるが、ある事情で江差にいられなくなった。

戦前の教育、軍の有様、そして天皇陛下が神であることさえ疑っていた良さんで
あるから、戦後の価値観の間逆さには十分順応出来たらしい。

とは言え、こと男女の関係には、とことん疎い男でもあったそうである。
なぜ江差に居られなくなったか?このことを電話では話せないと言う。
良さん曰く、女性関係がこじれたとのことである。
狭い街であるから、よっぽどのことだとは思うが、会わなければ話せない事を、
聞着出すのは野暮であるし、良さんの名誉のため聞かない事にした。

結果昭和25年、良さんは江差を出、伯父の住む夕張に赴いた。
まるで夜逃げみたいだったそうだ。

夕張で何をしていたか?たかが3ヵ月の話を、良さんは今でもはぐらかす。
でも一度だけ、ひどく酔っ払って帰って来た時、尋ねたら炭鉱で石炭を掘っていたと言う。
夕張での仕事=工夫なのだそうだ。
結局伯父の紹介で、旭川の製紙工場に職を得た。

四畳半の間借りで、小鳥を飼う傷心の良さんがいた。  

Posted by あきひろ佐藤 at 01:41Comments(4)父の話

2007年07月01日

良さんの話 13.痒い痒い病

昭和20年9月、月寒の野戦病院から江差の実家へ復員した良さん(父)は、
痒い痒い病にかかってしまった。
衛生兵であったにもかかわらずである。

そこで、八雲近くの見市温泉へ湯治に行った。
湯につかってのんびりしたらしい。
あっと言う間に、治ってしまったと言う。

江差では何にもすることが無く、しばらく遊んでいた。
穀つぶしのままでは、まずいので職をさがし動員所で職を得た。

その後、動員所は、職業安定所、労働基準監督署、労政事務所に分かれる事になり、
良さんは、労基所で仕事をすることとなる。

戦後のどさくさではあったが、江差は穏やかであったみたいである。

だが労基所での勤めも続けられない、良さんにとっては辛いことが起こる。  

Posted by あきひろ佐藤 at 07:46Comments(4)父の話

2007年06月24日

良さんの話 12.戦後の札幌

終戦を釧路で迎えた良さん(父)の部隊は、
一度帯広へ帰ることとなった。

そのままサハリン行きの船に乗っていたら、暫くは日本へ
帰ってこれなかったかもしれないし、命を落としてしまったかも
知れない。
良さんの人生で、もっとも大きな節目であった。

ほどなく良さんの中隊は、札幌の月寒(つきさっぷ)へ移動した。
歩兵第25連隊のあったところである。

良さんは鉄砲かつぎではなく(良さんの弁)衛生兵であったから、
野戦病院へ移った。
そこで軍は解散となったそうである。

一部の兵士は、臨時の憲兵となり、治安維持にあたったらしい。
札幌の街は、良さんの見た限り、ごく平穏であったそうである。
良さんはその任には就かず、国鉄で郷里の江差、五勝手へ帰った。

良さんは終戦ではなく敗戦だ言う。
終戦などという生やさしいものではなく、惨めな、ただ惨めな
ものだったそうである。

  

Posted by あきひろ佐藤 at 09:09Comments(2)父の話

2007年06月17日

良さんの話 11.8月15日

良さん(父)は、昭和20年8月15日を釧路でむかえた。

玉音放送が流された日である。
丁度釧路港からサハリンへ向け出航する直前だったそうである。
上官から、もう行かなくてよくなり、日本が戦争に負けた事を告げられた。

父は実家への送金目的で、16歳から軍属として中国に渡り、
帰ってきてから、徴兵され帯広駐屯地に赴いていた訳であるから、
戦局は良くないくらいの事は知っていた。

もともと天皇陛下が神様であることも、口には出さずとも疑っていたし、
何かがおかしいとは思っていた。

それでも純粋に戦わなくてはならない「使命」のようなものを持ちながら、
それと相反する「生」への執着があったという。
結果、衛生兵を志願することになる。  続きを読む

Posted by あきひろ佐藤 at 12:47Comments(2)父の話

2007年06月14日

言いなり良さん

肺炎と胸膜炎を起こして入院している良さん(父)、
結局ガンでも結核でもありませんでした。

見舞ったとき、退院したらタバコも止めたらと言ったら、
「弟が肺がんだって、あいつなんか、もう20年も前に酒もタバコもやめたのに、意味無い!!」
ときっぱり。

じゃあ、早く退院して見舞いに行かねば、、、、
そういったのが、先月の終わり。

酸素もとれ、しばらくは、呼吸がしんどそうだったのですが、だいぶ良くなったそうです。
その後、胃にかいようが見つかり、ついでに大腸も検査、
結果問題は無かったものの、きっと心配しすぎたのでしょう。

全く病院の言いなりなのです。
3ヵ月は病院が儲かる仕組み??かも知れないので、
だまっていたら、3ヵ月は入院させられるかも?と母につげ、
良く相談するように言っておきました。

私といえばパソコンを開けることもメールを読むことも、ままならず、
はっきり言ってしまえば、だらしない状況でして、(仕事の環境が激変しまして)、、、

ご心配おかけした皆様には、心よりお詫び申し上げます。
あい済みません。  

Posted by あきひろ佐藤 at 22:03Comments(11)父の話

2007年06月14日

12チャンネルで快適

随分と書き込みしてませんでしたが、久しぶりに、、、、、

テレビ東京でもなし、ミキサーのことでもありません。
母をほぼ無理やり販売店へ連れて行って、購入したデジタル補聴器のことです。

4年前に買ったアナログ補聴器、耳にあわなくてピーピーハウリングをおこし、
とても装着できず、一緒に暮らす良さん(父)が疲れ果てていたからです。

良さんが入院してから、何とか見舞いがてら帰った時、
私もこれではまずい、と思い連れていった次第です。
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Posted by あきひろ佐藤 at 21:41Comments(0)父の話

2007年05月27日

良さんの話 10.敗戦前

良さん(父)が衛生兵として帯広にいたころ、生々しい戦いの話は聞いたことが無い。
駐屯地があるところを攻撃するようなまねを、米軍はしなかったのだろう。
第七師団があった旭川で爆撃があったらしい事は聞いているが、
東京大空襲のような事態ではなかったようだ。

一方母の実家である網走近くの浜小清水あたりでは、
グラマンの急降下射撃が行われていたという。

原生花園に沿って走る線路めがけての練習だったらしいが、鉄道員に死人が出たと聞く。
母の実家は濤沸湖の湖畔にあったが、射撃による水柱が2メートルも立て続けに立って、
恐ろしかったそうだ。

昭和20年8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を廃棄し日本に戦線を布告した。
日独伊三国同盟をむすんでいた、ドイツ、イタリアの敗戦が濃厚となってからの参戦である。
いかにもソ連らしい。

そんな中、父の部隊は釧路港からサハリンへ異動するよう命令が下った。  

Posted by あきひろ佐藤 at 10:31Comments(2)父の話

2007年05月22日

結果待ち

良さん(父)は、熱も下がり、食欲も出てきたみたいです。
今日も、追加でレントゲンを撮ったらしいのだけれど、
結果は二三日待つように言われたそうです。

正直、じれったい。

入院して一週間と少し、結果がどうあろうとも、早めに知りたいものです。
最悪の時の覚悟は、随分前からしていますから。

ところで私といえば、土日と午前様続き、、、
野暮用といえばそれまでですが、いい加減には出来ないものでして、
ネット徘徊もままならずです。

救いなのは、明日一泊二日で北海道出張出来ること。
残念ながら札幌ではないので、見舞いには行けませんが、
来週、日帰りの出張があり、父の病気を理由に土曜の夜から札幌へ帰れることになりました。

上司の寛大なる配慮に感謝です。
  

Posted by あきひろ佐藤 at 23:12Comments(9)父の話

2007年05月17日

良さん、胸膜炎も??

CTで検査をした良さん(父)は、肺炎のほかに胸膜炎なるものも
発症しているそうです。

胸膜にたまった水を採取して、結核とかガンの検査にだすそうで、
検査の結果はあと2、3日かかるみたい。
微熱もあり、抗生剤2種類と利尿剤の点滴、酸素マスクをしているそうです。

どんな薬を使っているか聞いても、そんなことお医者様には聞けないと母は言うので、
看護婦さんに聞いて入院日記を付けるように言いました。

当初の治療計画が二週間なのですが、伸びることもありでしょう。

栄養状態は良いと、何度も言われているようなので、
それだけでも、安心です。

私といえば新しい部署で15年くらい前に働いていた上司や同僚と再会したり、
吐きそうになるくらいの、膨大なメ-ルや仕事に追われて、少ない脳みそ沸騰してます。  

Posted by あきひろ佐藤 at 12:44Comments(4)父の話

2007年05月13日

良さん、急性肺炎で入院

昨金曜、新しい部署での飲み会がありました。
やはり、気をつかうことも多く、予想以上に疲れた一週間でした。
土曜は気が付いたら、もう午後3時、、、、

母から電話です。
良さん(父)が急性肺炎??だとかで入院したそうです。
二三日前から、胸が痛くて湿布してたそうで、筋肉痛だと思ってたそうです。
幸い近所のかかりつけのお医者さんが、即紹介状を書いてくれ、
タクシーでワンメーターのおおきな病院に入院したとか、、

母いわく、旭川にいたら、心細い思いをしたろうけど、
今のところは、安心だわ、、、、
声の感じからは、そんなに悲壮感はありません。
でも少しあせっているみたいなので、まずお茶をのみなさい、って言うくらい。

病気は、本人しか治せないので、私がジタバタしても始まらないので、
せいぜいお金の工面くらいでしょうか。

私といえば、今日も午後まで起き出せず、
ボロ雑巾のように死んでました。

明日、良さん、精密検査だそうで、たいした事ないことを願うだけです。

やれやれ  

Posted by あきひろ佐藤 at 23:35Comments(9)父の話

2007年05月06日

良さんの話 9.衛生兵

良さん(父)は、衛生兵に志願し、教育を受けることになった。
人体の仕組みから、公衆衛生、消毒、注射、止血、三角巾や包帯の巻き方など、
看護婦さんが学ぶような事だったと言っている。

期間は約3ヵ月、義務教育以外で学ぶ事が出来なかった良さんにとっては、
知的好奇心を十分満足させるものであった。
同時に、衛生兵の任務が少しずつ明らかになるにつれ、自分の抱いていた
ものとはかけ離れていた事に愕然となる。

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Posted by あきひろ佐藤 at 10:24Comments(0)父の話

2007年04月29日

良さんの話 9.誤算

良さん(父)は、帝国陸軍で92式重機関銃の銃手をしていたが、あまり気の進まないものであった。
理由は、先週書いたとおり、人を撃ちたくもないし、撃たれたくもない。
只それだけだったようだ。

そんな時、銃機関銃小隊に衛生兵が居ない事が判明したのか、「誰か衛生兵を志願するものは居ないか?」との上官の声が聞こえた。
良さんは、迷わず「志願します!!。」と返事をしてしまった。

あたりの者は、どうして???と言わんばかりの顔つきだったそうである。臆病ものだ、と言う訳だ。
良さんもその事は承知していたが、自分の考えを曲げる事は出来ない性分だし、
生きていてこそ何ぼのものだから、役目として必要ならばと思ったのであろう。
少なくても最前戦に行くことは無い、と思っていたそうである。

だがそれは、大きな誤算だった。  

Posted by あきひろ佐藤 at 09:14Comments(0)父の話

2007年04月22日

良さんの話 8.重機関銃

良さん(父)は、走るのが速かったわけでは無いが、俵をかついで50メートル
走れば一等を取れると豪語していたことがある。
そうとう馬力があったのだろう。

第五師団帯広へ赴くと、重機関銃を扱う事なった。
三脚に銃身を取り付けた、多分92式重機関銃だったと思われる。

父は銃手を命ぜられたと言っているが、いかに当事の陸軍が疲弊していたとはいえ、
いきなり少年兵に銃手を任せるとはとても思えない。

8人くらいの編成だったそうだが、半分は弾薬の補給にあて、
あとの半分で、弾の装てんなどを行ったそうだ。
白兵戦において歩兵を援護するのみならず、最前列から的を攻撃することも重要な任務で
あったから、三脚、銃身セットで50キロ以上はあろう92式を、運ぶには体格の良い父は,
適任であったのかもしれない。
また弾の補給に馬が使われていたと言うから、何だかなあ、笑ったらおこられるかなあ?

光学式の照準で、1キロはなれたところまで目視できた、と言うから
良さんは銃手を勤めたのは、間違いではないようだ。

良さんは、人に向けて弾を撃つ事を考えただけでも嫌で嫌でたまらなかったそうである。
そして、一番最初に敵から狙われるのも自分であることも知っていた。
しかし、そのような個人の思いなどどうにもならないのが軍隊。
嫌でもやらなければ自分が殺される、そう思う意外に落としどころはなかったようである。

しかし良さんは、銃手をやらなくて済む、絶好の機会を得ることになる。  

Posted by あきひろ佐藤 at 09:28Comments(2)父の話

2007年04月15日

良さん(父)の話し7.徴兵検査

肋膜を患った良さんは、開封の陸軍病院で1年ほど療養し回復した。時同じく、所属する師団が開封から南方への機動を銘じられ、それと供に良さんの軍属は本国へ帰還する事になった。

南方とは、何処をさすのか、良さんは詳しくは覚えていないが、ニューギニアであると言っている。もし、そこへ行っていたら、私は生まれていないかもしれない。

江差へ戻った良さんは、事務の仕事をして生計を助けていた。20歳を目前にして、徴兵検査を受け甲種合格となったそうである。父は身長165cm体重70kgはあったというから、特別な病気でもない限り逃れられない。

検査は、性病、痔に重きをおいた目視、触診で行う屈辱的なものだ。良さんは、その事には触れないけれど、中学の恩師から聞きかされていて私は知っている。

そして19歳で少年兵とし、第5師団帯広へと赴く。
大日本帝国陸軍二等兵の良さんである。  

Posted by あきひろ佐藤 at 21:36Comments(4)父の話

2007年04月08日

良さん(父)の話 6.軍属になる。

良さんが尋常高等小学校(今でいう中学)を卒業した昭和十年ころ、
日本は中国との間で宣戦布告もない「事変」と呼ばれる戦いを
行っていた。

良さんは、桧山郡上ノ国町の中外鉱山で事務の仕事につくが、
半年でやめ、大日本帝国陸軍の軍属として、当事の中華民国、
華南省東部の開封という街へ行くこととなった。
(北京と上海を結ぶ線の中間くらい)
国家総動員法が施行されたころである。  続きを読む

Posted by あきひろ佐藤 at 10:41Comments(2)父の話

2007年04月01日

良さん(父)の話 5.座礁

昭和の始めの頃、尋常小学校と尋常高等小学校が義務教育であった。
小学校は6年、高等小学校は2年であり、万14歳で義務教育は終わる。
良さんの成績は、悪くもなかったし、近衛兵になる夢もあったから、
良さんの兄や姉やと同じように、進学を希望していた。
しかしある事件のため、諦める事を強いられた。

祖父の船が座礁し、何人かの漁師が命を落としてしまったのである。  続きを読む

Posted by あきひろ佐藤 at 12:03Comments(3)父の話

2007年03月25日

良さん(父)の話4、江差のカフェ

父が裕福な家庭に育ったのは、以前洋服は全て、
あつらえ物であったと書いたので分かると思う。

でも、もっと驚くような話があった。

小学校の遠足の時である。
小さな小学校だった為なのか分からないけれど、行き先は父の姉と一緒だった。
何キロか歩いて現地解散。
本当に歩く事を主眼にしたものだったらしい。

ようやくたどり着いて、姉さんと一緒に帰ろうか?、と思っていたところへ、
ふと現れたタクシー、、、、、、
私の祖父である。

祖父は漁で家を空ける事も多かったが羽振りは良かった。
なので遠足の帰り、迎えに来たそうだ。(父に言わせれば只の伊達男だと)  続きを読む

Posted by あきひろ佐藤 at 02:28Comments(4)父の話

2007年03月18日

良さん(父)の話 3.アワビの天麩羅

私が子供のころ、父は生きが良いイカがあると、買ってきては生ぼせ(一夜干し)を
造ってくれた。
適当にさばいて半日くらい干す。軽く火であぶって頂く。
それだけ。

父が子供のころ、おかずはイカが主だったそうで、
中でも生ぼせはいくら食べても、もたれない大好物だったらしい。

しかし訳あって尋常高等書小学校(中学)を卒業して、すぐ働かなくてはならず、
上の国の中外鉱山へ稼ぎにいくことになった。

良さん16歳の頃である。

その時、先輩からアワビを天ぷらを食わしてもらったらしい。
父は世の中に、こんなにも美味しいものがあるのか初めて知った。

私が成人してからも、随分とアワビの天ぷら食べたいと言っていたっけ。
きっとその時以来、口にしていなかったのであろう。

ところが今から5年くらい前、いつも行くおすし屋さんの小上がりが満席だった時、
カウンターに座って、そう言えばここには天ぷらもあるんじゃなかったっけ?と思い出し、
板前さんに聞いてみた。

アワビ天ぷらに出来ませんかね?

父は60年ぶり位のアワビの天ぷらを、旨そうに食べていた。  

Posted by あきひろ佐藤 at 00:32Comments(2)父の話

2007年03月11日

良さん(父)の話 2.

昭和初期、江差はニシンが沢山捕れ、町は相当活気があったそうである。

私の祖父は船頭であったから家を空けることが多く、
父はもっぱら、地主である祖父(私の曽祖父)に可愛がられていた。
同時に少し面倒な用事をさせられることがあった。

地主は、小作に米を作ってもらって何ぼのものだから、
金、というより、米の用立てなども行っていたらしい。

貸したものは、いずれ返してもらわなければならぬ。
そういう時、まだ子供の父を使いに出したそうである。

「こんばんわ、サクエンドウ(佐藤家の俗称)の良ですが、、」
「良ちゃんかい、まあ上がんなさい」

そこまではよいのだが、爺さんに言われた米の事がなかなか言い出せない。
飯までご馳走になったひにゃあ、切り出すどころか、
口にはハッカーでも開けられぬ頑丈な鍵がかかり、
ただただ、うつむくばかりであったそうだ。

父は今でも大変辛かったと言う。  

Posted by あきひろ佐藤 at 14:56Comments(0)父の話

2007年03月04日

良さん(父)の話 1.

父の名前は、良○。

○の中にはある漢字が入る。

大正の終わり、江差の五勝手に生まれた。

私の祖父は、漁師、曽祖父は、地主というまれに見る裕福な家庭であった。
父は、7人兄弟の次男。上に兄、姉、下に弟2人、妹2人。
11月20日を誕生日としているが、その年は豊作、豊漁で
人手が足りず、届けがすぐに出せなかったらしく、
実際は10日位早く生まれたらしい。

子供のころの写真はほとんど残っていないが、
毎日おかずにイカばかり食べさせられ、海を遊び場にした真っ黒な小僧だった。
ちなみに虫歯は1本もなかったが、極度の偏平足であった。

祖父(父の父)は、馬力は少ないけれど、見栄えの良い船と、番屋を持っていた。
曽祖父は、そのあたりの土地で米やら芋などを小作に作らせていた。
倉がある資産家だった。
なので父は子供のころ(ある事件が起こるまで)
洋服は既製品を着たことが無く、全てオーダーメイドであった。

父は結構わんぱくでもあったらしく、よく番屋へ出入りしては、
漁師たちにかわいがってもらった。
もしかしたら、酒の味はその時知ったのかも知れない。

成績も素行以外、すべて甲だったらしい。
しかし、素行が乙なもので、優等生にはなれなかった。
それを聞いた近所の爺さん、男の子が素行悪くて、優等生になれないとは
何事か??言って、学校へ怒鳴り込んだそうである。
男の子は、多少元気があった方が良い、との思いであろう。
少し自慢げに語ってくれるエピソードだ。

近衛兵になるのを、純粋に夢見ていたそうである。

今、父の親しい人は、りょうさん、とか、りょうちゃん、とか呼んでいるが、
私には少しばかり羨ましい。  

Posted by あきひろ佐藤 at 11:16Comments(0)父の話